[写真]=須田康暉

 吹奏楽か、バレーボールか。中学時代に迷いながら選んだバレーボールの道。ずっと「コンプレックスだった」という長身を武器に、Vリーグの選手として活躍するも、選手としてのキャリアは4年で終え、新たな道へと進んだ。

 自信を得るために、胃腸炎になるまで勉強して片っ端から資格取得に励んだ学生時代、そして「英語」という武器に出会うまで――。

 SVリーグの埼玉上尾メディックスで通訳として活躍する、メイレレスゴンサルベッシュ美帆さんに聞いた。

取材=田中夕子
撮影=須田康暉

コンプレックスだった長身がプロの世界へ導くきっかけをつくってくれた

――バレーを始めた時期やきっかけを教えてください。

メイレレス 2歳上の姉がバレーボール部に入っていたので、中学校の部活でバレーボールを選びました。もともと母もママさんバレーをしていたので、遊びに行くことは多くありましたが「やりたい」と思っていたわけではなかったんです。エレクトーンを習っていたし、母もフルートを演奏していて音楽も好きだったので、吹奏楽にするかバレーにするか。悩んだけれど姉がいるし、とバレーを選びました。

私が入学した頃は市でも2回戦を突破できるかどうか、という弱小だったのですが、2年生の時に男子バレーボール部の顧問になった先生が名将と呼ばれる人で、全国3位に躍進させたんです。当時から身長が170センチを超えていた私のことも気にかけてくれて「長身者合宿へ参加してみない?」と誘われ、どんなものかわからず参加しました。 

――選抜合宿というよりも、選手を探す育成目的でしょうか?

メイレレス そうです。北海道から沖縄、全国から身長の高い選手が集まって原石を探す。地元では自分のように大きい子は同世代になかなかいなくて、周りの目が気になって猫背になったり、コンプレックスと感じていた時期でした。だから長身者合宿に集まった子たちも同じように、大きいことを嫌だな、と感じている子も多くて、私にとっては「仲間を見つけた!」と思える場所でした。仲間とつながれるツールとしてバレーボールがあった、というのが私の本心でしたが、その合宿をきっかけに地元の強豪、市立川越高校の監督さんから声をかけていただいて、市立川越高校に進んだんです。強い思いを持って始めたわけではなかったのですが、中学を卒業する時のアルバムには「バレーボール選手になりたい」と書いていました。

[写真]=須田康暉

――高校は強豪校、中学からの変化に戸惑うことはありませんでしたか?

メイレレス 今思えば、バレーボールを全然知らないまま強豪校へ飛び込んだので、どれだけ厳しいのか、入るまでは全くわかっていなかったんです。でも練習が始まると、あれ、なんか練習きついぞ、と自分の体力や技術のなさに気づいていく。

 そもそも本格的にバレーボールを始めたのが高校からと言ってもいい状況だったので、わからないことは周りの先輩のプレーを見て、聞いて、真似をして繰り返し練習するうちに少しずつ技術力が上がって、監督も長身の私を育てようと1年生の頃から試合に出させてくれた。その経験が、プロ選手になる道を歩むことにつながっていったので、使い続けてくれたことに感謝しています。

――卒業後はVリーグのパイオニア・レッドウィングスへ。日本代表選手も多く在籍するチームでした。

メイレレス 実は最初から「バレーボール選手になる」と決めていたわけではなくて、決断する前に私の中では3つの選択肢があったんです。高校で選手としての経験を重ねて、アンダーカテゴリー日本代表にも選んでもらって、世界大会で銅メダルを取ることもできた。自分が世界と戦えることや結果が出ることは本当に嬉しかった反面、高校の厳しい練習を重ねるためにそれこそ食べる時間や寝る時間を削って、バレーボールを第一に考えた生活だったので、決して健康とは言えない。もしもこのままプロの世界に入ったら、この生活がずっと続くのか、と思うと心と身体が耐えられる自信もない。だから2つ目の選択肢としてあったのは、もともと勉強が好きだったので、すぐにプロの世界へ入るのではなく4年生の大学へ入って勉強をしながら、バレーボールも続ける道。そして3つ目が、姉と同じように英語の専門学校へ行くことでした。姉が楽しそうにしている姿を見て、純粋に「いいな」と思って学校見学にも行ったんです。だけどいざ行ってみると「今じゃない」という気持ちが強くなって、親とも相談して、バレーボールのトップの世界へ飛び込もう、と決めました。

[写真]=ご本人提供 パイオニア・レッドウィングス時代のメイレレスさん

――実際に飛び込んだトップの世界はどんな場所でしたか?

メイレレス 入る前は世界大会で銅メダルを取ったし、これからはバレーボール選手として活躍し、お金も稼いで親孝行したいと思っていたんです。でも実際にトップの世界に入るとスター選手やベテラン選手がたくさんいて、その中で私はと言えば身体自体も強くなくて、筋力、パワー、スピード、技術、すべてが足りないと思い知らされる。ユニフォームを着たい、試合に出たいと思い続けているのに、自分が実際にやることはボトルにドリンクを作ったり、洗濯の当番。これはチームのために必要な役割だ、実力が追いついていないんだとわかっていても、理想とかけ離れた現実に心がついていかない時期もありました。

――現役選手としての状況に変化が生じたのはいつ頃でしたか?

メイレレス 1、2年は下積みで雑用をして、3、4年目は同じポジションのベテラン選手が怪我をしたこともあって、試合に出させてもらえる機会が巡ってきました。いつそのチャンスが来てもいいように、と準備をしていたつもりでしたが、憧れの選手に囲まれて、その中でプレーをすることがどれだけプレッシャーがかかることか。コートで学んだことはすべて、自分の想像をはるかに上回ることばかり。心だけでなく身体にも負担が生じていて、もともと腰を痛めていたのですが、4年目になると日常生活にも支障をきたすほど痛みが強くて、立ち上がるにも壁に手をついて這うようにしなければ立てない。でもコートでは身を粉にして走り回って動き回る。それでも頑張りたい、と思ってきましたが、結果的に現役選手としては4年でキャリアを終えました。

バレーボールから離れたい苦しい日々に加わった「英語」という武器

――引退後はどのような生活をしていましたか?

メイレレス 現役時代はセカンドキャリアについて全く考えていなかったので、しばらくは心と身体を休ませよう、と実家でゆっくりしていました。でも、時間が経っても次に「これがやりたい」と見えてくることもなく、それどころか気持ちは全く上がらない。あれだけ好きだったはずのバレーボールも嫌になってしまって、親がテレビでバレーボール中継を見ていると「止めてほしい」と言うほどでした。その状況から自分の気持ちが動き出したのは、引退して半年以上過ぎてからでしたね。

――何かきっかけがあったのでしょうか?

メイレレス たまたまテレビを見ていたら、キャビンアテンダントさんの特集をしていて、働く姿がとても楽しそうだな、と思ったんです。その時に、高校卒業時に考えていた英語の専門学校へ行く、というイメージが具体的に湧いてきたので、願書を取りに行きました。

[写真]=須田康暉

――英語への興味は高校時代から抱いていましたか?

メイレレス 中学校の頃から英語は大好きでした。バレーボールをやめてゆっくりしている間に、現役時代はできなかったこと、行けなかったところへ行こう、と思い立ってニューヨークやフィンランド、シンガポールへ旅行しました。その時に「英語が話せたらもっと人生が楽しくなって、世界が広がるだろうな」と。繰り返しになりますが、姉が同じ専門学校へ行っていたこともあり、その時は「英語を仕事にしよう」とまで思ってはいませんでしたが、英語を学べば武器になる、と漠然と思っていたのかもしれません。

――専門学校へ進学して、その後留学もされています。どんな経緯でしたか?

メイレレス 最初はフライトアテンダント科に入学したのですが、自分が目指す本質とは違うと気づき、もっと世界の人や文化を知ることができる国際観光科に転科しました。同級生たちは高校を卒業してすぐに入学している学生が多いので、年齢は4〜5歳違う。フットワークが軽い周りの子たちを見て「いいな」と思う一方で、私が今まで歩んできた強みもある。バレーボールを辞めたばかりの頃は、自分の強みなんて何もなくて、バレーボール選手を終えてバレーボールもなくなってしまったから私の存在価値はどこにあるのだろう思っていたんですが、専門学校に入学してからは「変わりたい」「自信をつけたい」と思い必死で勉強して、10種類の資格と国家資格を1つ取得しました。英語関連のものはもちろんですが、カラーコーディネーターや世界遺産検定、何につながっているのかわからないようなものもあったんですけど(笑)、その時は無我夢中でしたね。

 同時に就職活動もして、いろいろな職種、企業を受けて、今の私の何が認められて、どこで落とされるのかを見極めたかった。その中で、内定をいただいたのがアパレルのユナイテッドアローズでした。アパレルの知識に長けていたわけではない私ですが、ユナイテッドアローズの理念に惚れ込みアプローチし続けました。合格してから初めて知ったのですが、入社時期を春か秋かで選べたので、私は秋入社を選んで、それまでの約3〜4ヶ月ほどハワイ大に留学しました。

――留学先ではどんなことを学びましたか?

メイレレス 耳で聞き取るだけでなく、英語を口からアウトプットできる環境にいられたことが何より大きかったです。もともと私は専門学校へ入学した時は、それこそクラスで一番ではないかというくらい英語のレベルが低かった。授業を聞いていてもどこにラインを引けばいいかわからないし、もっと言えば現役時代にペンを持つのはサインを書く時ぐらいだったので、文字を書くことも久しぶり、という状態でした。そこから猛勉強したので、先生に伸び率は一番だったね、と言われたのですが、実際に話すことはなかなかできなくて。ハワイに行って、日常的に英語を使うことで自分の感情や思いを英語で伝えられるようになった。短い期間ではありましたが、私にとっては本当に大きな時間でした。

[写真]=須田康暉

【メイレレスゴンサルベッシュ美帆プロフィール】
埼玉上尾メディックス 通訳
埼玉県上尾市出身 1988年生まれ
母、姉の影響を受けて中学時代にバレーボールを始め、高校は強豪の市立川越高校へ進学。卒業後パイオニア・レッドウィングスに入団するが、腰の不調などもあり4年で現役を引退。学生時代から関心のあった語学の専門学校に進み、留学、アパレル企業への就職を経てバレーボールのコーチに転身。その後モデル活動を開始し、Miss Hope Japan準グランプリや日本代表として出場したMiss Model of the World世界大会ではBest international friendship award を受賞した。現在はバレーボール日本トップリーグの大同生命SV.LEAGUE埼玉上尾メディックスで英語通訳として活躍中。