バレーボール日本代表から、ウイスキーの啓発活動の第一人者へ転身を遂げた佐々木太一さん。バレーボール選手として「何も知らなかった」ところから、一気に日本代表へと駆け上がる道のりは、他のバレーボール選手とは異なり、佐々木さん曰く“雑草”のような強さで自らチャンスを掴み取ってきた。
ミドルブロッカーとしては小柄な194センチ、それでもサントリーに入社後はVリーグでスパイク賞やベスト6を受賞し、未だ破られていない大記録、5連覇も成し遂げた。人気絶頂の中、一度は「バレーはもういい」と切れかけた気持ちを再びつないだのは、単身渡ったブラジルでの経験――。
インタビュー前編では、バレーボール選手として数々の選択、決断について語っていただいた。
取材=田中夕子/撮影=戸張亮平
――小学生からバレーボールを始め、高校はバレーボールの強豪校ではなく、進学校。日本代表へとつながるキャリアはどのように構築されたのでしょうか?
佐々木 たまたま小学5年の時に特別クラブとしてバレーボール部ができて、全国大会にも出場しましたが練習も指導もかなり厳しいクラブだったので、私は「もう絶対にバレーボールはやりたくない」と思っていたんです。ただ、同級生が中学に入ってからもバレーをやりたい、と引きずり込まれた。当時の神奈川県はレベルが高く、県でベスト4くらいに入るのがやっと、というレベルでしたし、高校に入ったら今度こそバレーボールはやらない、と決めて、その頃興味があった機械工学を勉強するために、希望ケ丘高校を受験して入学しました。
――希望ケ丘高ではバレーボール部に入る予定ではなかったということですか?
佐々木 そうです。入学してすぐ予備校へ通い始めて、大学は理系に進もうと勉強していました。でもね、身長が182センチあったので休み時間になると毎日先輩が「1回バレー部の練習に来てくれ」と誘いに来るわけですよ(笑)。しつこいなぁ、と思いながら仕方なく一度練習を見に行ったら練習場所は体育館ではなく外。その時は、何だこの世界は、と思っていたんですが、よく見ると先生が厳しく指導するわけではなく、ほぼ口を出さない。練習メニューも選手同士で考えて実践しているのを見て、これは面白そうだな、と魅力的に見えました。そこから本格的にバレーボールのキャリアがスタートしました。

――当時から有名な選手でしたか?
佐々木 いえいえ、全然。当時の神奈川県は藤沢商業、藤嶺藤沢、法政二と名だたる名選手がいる強豪が揃っていたので、最高成績は県でベスト8。ところが、高校2年の終わり頃に顧問の先生から「関東ブロック選抜合宿というのがあるから、そこに自費で参加して来なさい」と言われたんです。まずその合宿が何かもわからないし、自費で参加するという意味もわからない。
結局何もわからないまま合宿に向かったら、参加しているのはまた名だたる強豪校の坊主頭の選手の中に1人さらさらヘアの私(笑)。ただ、全く歯が立たないんだろうな、と思っていたら、ジャンプやスピードの測定で全体の3番ぐらいに入っていて、バレーボール自体も自分が思っていたよりも通用した。これはひょっとしたら大学にもバレーボールで進学できるのではないか、と考え始めたのですが、実際は全国大会の出場経験がないのでそう簡単に声はかかりません。そこで拾ってくれたのが、僕が参加した関東ブロック予選を視察していた専修大の当時のコーチ、吉田清司さんでした。当時は関東三部リーグでしたが、僕からすれば強くなくても楽しくバレーボールができて大学にも行けるならありがたい。当時はそれぐらいの気持ちでした。

――そうだったんですね。でも実際は専修大在学中に日本代表へ選出されました。きっかけは何でしたか?
佐々木 レギュラーとして出場した春季リーグで二部に上がって、リーグ戦が終わると部活の練習は休みになるので、学校をサボってカラオケに行ってたんです。実家に「今から帰る」と電話したら、母親が電話口で「あんた今日、学校に行っていないでしょ」と。いやいや行ったよ、と取り繕ったのですが、「学校中で今日、あんたのことを探していたのにいないと連絡が来た」と言われたのでごまかしようがない(笑)。すぐ帰ってこいと言われて、帰ると「ここに電話しなさい」と差し出されたのが、当時U21日本代表監督の辻合(真一郎)さんの電話番号でした。
これまたわけもわからず電話をすると「明日大阪に来れますか」と言われ。勘弁してくれよ、と思いましたが、大学の監督からも「とにかく行って来い」と。背景を聞けば、吉田さんが「一度この選手を見てくれ」と推薦してくれたそうなのですが、高校の選抜合宿時と同じように何がなんだかわからない。荷物をまとめて大阪へ行ったのですが、体育館に入っただけで殺伐とした空気が漂っていました。聞けばU21日本代表が選抜される最終合宿。関東三部リーグで神奈川の公立校出身の選手など誰も知らないのですが、練習に入るとそれなりにできる。1週間の合宿参加だったにも関わらずメンバーに選ばれて、アジアジュニアで2位、世界ジュニアでも上位進出とそれなりの成績を残すこともできました。

――アンダーカテゴリーからすぐ日本代表へ?
佐々木 そうです。1、2年はジュニア代表で、3年になったらまた辻合さんから電話が来て「日本代表のコーチになるから合宿に参加してくれ」と言われました。さすがにその時は震えました。何しろ日本代表、テレビでしか見たことがない人とプレーするわけですから。
合宿へ参加する時も、当然ジュニア代表の時とは違う。行けば眞鍋(政義)さん、植田(辰哉)さん、中垣内(祐一)さん、錚々たるメンバーが揃う中で練習に参加すると、そこでも意外とスパイクが決まるし、ブロックも止まる。1992年のバルセロナ五輪に出場する12名の最終選考からは外れましたが、大学4年になった時にはもうバレーで飯を食っていこう、と自分の中では決めていました。
――卒業後は日本リーグでバレーボール選手としてのキャリアがスタート。サントリーに決めた理由は何でしたか?
佐々木 ありがたいことに、当時はトップリーグのほとんどのチームから声をかけていただきました。全国の名だたる強豪校だと、企業にOBがいるなど多少なりともつながりがあったりします。しかし、そもそも専修大、希望ケ丘高の私にはそれが一切ない。関西へ行ってみたい、という思いと、日本一になれそうなチームはどこか、そして自分が出られる可能性が高いのはどこか、と考えた結果、サントリーを選びました。

――中学では「バレーをやめようと思っていた」ところからVリーグ、日本代表、改めてうかがうとものすごいサクセスストーリーですね。
佐々木 結局ね、雑草なわけですよ。ずっと我流で、誰かの真似をしたいわけではない。尊敬する人もいない。それでも当時は男子バレーも今と同様に人気がありましたから、私もなかなかの人気でしたよ(笑)。バレーボールに対する注目が高く、オリンピックでメダルを獲った3チームと日本が戦う「スーパー4」という大会ができて、ゴールデンタイムに生中継されたんです。その時に私がミドルブロッカーとして1番手の座を争う相手は、2メートル8センチの大竹(秀之)さんと2メートルの南克幸さん。雑草がサラブレッドと戦わなければならない。大変ですよ。同じことをしても絶対に追いつけないと思って、自分のやり方で勝負しようと思っていた時に、大会2週間前に南さんがケガをしてしまった。私にとってこの2週間は大げさじゃなく、人生をかけた戦いでした。そこでレギュラーの椅子をつかみ大会に出場すると、相手も私のデータがないのでスパイクもばんばん決まる。急遽、大会特別新人賞が設けられ、私が選出された。そこで「ラッキーボーイ」というニックネームがつけられて(笑)、自分で言うのもなんですが、人気も爆発した。電車にも乗れないぐらい、当時はすごかったですね。
――サントリー入社1年目で日本代表。Vリーグがスタートしたのも同時期でした。
佐々木 外国籍選手が2名在籍できることが当時はセンセーショナルなことだったので、新しいリーグが始まる、と盛り上がっていました。しかもサントリーは初代王者になりました。私もベスト6に選出されて、日本代表でもワールドカップに出場。選手としてはいわゆる絶頂期です。当時は未熟でしたから、その状況に甘えて、派手な生活をしていました。そうなれば当然ケガもするし、リーグでも勝てなくなる。当時は27歳だったのですが、引退したらバーを経営したいという夢もあったので、バレーボールはもういいかな、と思い始めた時期でした。
――現役引退は33歳の時、「バレーボールはもういいかな」と思いながら続けた理由は何でしたか?
佐々木 当時のサントリーバレーボール部副部長で元日本代表監督の大古誠司さんに「ここにいても面白くないと思っているんじゃないか」と見透かされていました。そこで「1回外に出てこい」と7月から10月までの3ヶ月間、ブラジルにバレー留学をしたんです。今は海外でプレーする日本人選手も増えていますが、当時は海外でプレーすること自体珍しかったですし、私が行ったクラブはアルゼンチンとの国境に近い場所で日系人もほぼいないし、もちろん通訳もいない。英語は通じない、みんなポルトガル語で会話をする中にポツンと1人、最初は日本人というだけでバカにされていたし、チームにも馴染めない。大変でしたよ。でも寮生活で一緒に時間を過ごすうちにだんだんチームメイトとも打ち解けて、すごく仲良くなった。何より、ブラジルでの3ヶ月でバレー観がガラッと変わりました。
――バレー観の変化というと、具体的には?
佐々木 プロの世界なので、それこそ練習から火花が散る。仲良し集団でいる必要はまるでなく、1人1人が試合に出るために必死でぶつかり合う。そのうえで、もちろん勝負にもこだわるのでチームが勝つために全力を尽くす。年齢を重ねてもできることがあるし、たとえジャンプ力が落ちてきたとしても、きれいに決めるばかりでなく決め方がある、と学びました。加えて、技と技の勝負である前に、バレーボールはメンタルスポーツなのでいかに相手よりも強さで勝るか。それこそ1人1人が全員、「この1点は自分が取る」と前に出てくる強さが必要だと感じたので、僕が見て、感じてきた大切だと思うことをチームにも植え込ませたつもりです。

――その経験がチームを引き上げる力になったということですね。
佐々木 番長はできるけど、キャプテンはできない。私はよく周りにそう言うのですが、その真意としては、キャプテンは下から押し上げるリーダーじゃないですか。でもそれは苦手なんです。むしろ私は上から引っ張るほうが得意なので実践した。結果的にそこからVリーグで5連覇を達成し、スパイク賞も受賞した。現役時代を振り返った時に、いつが自分のベストだったか、と聞かれたら、ブラジルから帰ってきた晩年が自分にとっては一番いい時だった、と胸を張って言えますね。