7シーズンを振り返れば、決して順風満帆な日々ではなかった。それでも、引退が決まった今、山口拓海は自らの選手生活を振り返ると苦い記憶も含めて、さまざまな“あの頃”が色鮮やかに蘇る。
「幸か不幸か、東レアローズに入ってから3シーズンぐらいリベロが1人しかいなかったので、試合に出させてもらう機会が多かったんです。気持ちも技術も、いろんなことがすごく大変だった記憶ばかりなんですけど、そのたびいろいろな人たちに助けられて、ここまで続けてくることができました」
幼い頃から全国優勝や、アンダーカテゴリー日本代表で活躍した選手も揃うSVリーグで、山口はエリートと呼ぶには程遠い選手生活を歩んできた。遡れば、群馬県随一の進学校でOBには多くの政治家もいる高崎高の出身。ほぼ毎日与えられる課題や小テスト。「授業を聞いていたらだいたい(テストも)できた」という発言はいかにも優等生だが、文武両道を体現し、全国大会にも出場した。実は1学年上には樋口裕希(広島サンダーズ)と東レ静岡のスタッフでもある渡辺慎太郎、1学年下の山口裕太郎(大阪ブルテオンコーチ)と、今もSVリーグのクラブに在籍する卒業生が多いのだが、当時から「バレーボール選手として生きていきたい」と考えていたわけではない。
「部活と勉強に必死だったので、先のことをそこまで考えることもなかったんです。国公立でバレーボールができればいいな、と考えれば候補は絞られて、顧問の先生や1つ上の先輩(樋口)が筑波大だったので、自分も筑波を目指そうと決めた。センター試験を受けて、一般受験で入学してバレー部に入りました」
大学バレーの強豪筑波大は高校時代から名を馳せ、バレーボールの推薦で入学する選手もいれば、山口のように一般受験を経て入学する選手もいる。入口は異なるかもしれないが、入ればやるべきことは同じ。何より、山口自身もただ4年間を過ごすだけでなく、やるからにはレギュラーの座をつかみ取りコートに立つ、と燃えていた。
「バレーをするために筑波へ入ったのは同じなので、推薦で入った選手や、試合に出ているメンバーと比べて自分が劣るとは思わない。練習も、下級生の頃はその他の準備を含めた仕事も大変でしたけど(笑)、あの厳しい環境でできたからこそバレー選手としてはもちろん、人間としても強くなれた。筑波に行ってよかった、と今でも心から思います」
なかなか試合出場の機会は得られなかったが、3年で出場機会をつかんだ。とはいえ自分がバレーボール選手になれるとは思えない。バレー部で練習や試合を重ねながら就職活動もしていた中、唯一、山口に声をかけてくれたのが東レアローズ(現・東レアローズ静岡)だった。
「できればバレーを続けたいと思っていたので、純粋にありがたかったし、迷う理由がありませんでした。正直言えば、その時はそこまで深く考えていなかったですけど、自分の実力を認めてもらえたのがすごく嬉しかったですね」

2020年、山口は小澤宙輝、富田将馬(大阪ブルテオン)と共に入社したが、直後にコロナ禍が重なり、バレー部以外の同期とは顔を合わせる機会もない。せめてもの顔合わせを、とZOOM飲み会で親睦を深めようとしたが会話についていけず「ちょっと入れないな」と3人で苦笑いを交わした苦い思い出もあれば、ようやく練習できるようになってからしばらくマスクをつけていた頃。今となっては懐かしい思い出ばかりだが、バレーボールの試合を振り返れば感傷に浸るばかりでなく、いい時もあればうまくいかない時もある。Vリーグ最後の年になった2023/24シーズンに3位決定戦を制して3位になった試合も印象深いが、むしろよかった時よりも色濃く覚えているのが、失敗の記憶だ。
山口にとって「最悪だった」と振り返る試合が、入団1年目の2021年3月にパナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)と対戦し、ボコボコにやられた試合だ。リベロであるにもかかわらず、サーブでも徹底的に狙われ、ディグも上がらない。経験豊富で試合巧者の相手に対して為す術もなく0対3で敗れた。
チームに迷惑をかけてしまった。後悔の念に駆られる山口を、1人の選手が救った。セッターの藤井直伸だった。
「試合が終わった後、隣に藤井さんが来てくれて。その時何を話したとか、何を言われたかというのは正直あまり覚えていないんですけど、チームに迷惑をかけてしまった、と落ち込んでいた時に、いつもと変わらない感じで普通に隣へ来て話してくれた。そのことにすごく救われて、気持ちが楽になりました」
それからは事あるごとに藤井は山口に声をかけ、食事に行く機会も増えた。日々の何げない話から、藤井が「自分も1年目の時はひどかったし、自分のせいで何回も負けた」と山口に当時の姿を重ねて回顧することもあった。そんな姿や1つ1つの言葉に「救われた」と山口は繰り返す。
「僕が入った時、藤井さんはずっと出ているセッターですごくしっかりしているイメージしかなかったので、そんな時代もあったんだ、とびっくりしたんです。他の先輩方からも冗談交じりに『藤井の1年目はひどかった』と聞いたのも今となってはすごくいい時間で、いい思い出。藤井さんの言葉で僕は気持ちが落ち着いたし、試合中にうまくいかないことがあっても、できることはできるし、できないことはできない、と割り切れるようになった。選手として成長できたきっかけがあったとしたら、あの時でした」
VリーグからSVリーグになり、入団当初から共に戦った仲間もチームを離れていく中、山口自身もケガが続き、苦しい時間を過ごしてきたが、いついかなる時でもまた訪れるであろういつかに向け、努力を重ねて来た。

再びメダルをかけた戦いがしたい。そのコートに立ちたいとがむしゃらに歩み続けた山口の、現役最後のホームゲームは4月12日、このはなアリーナの広島サンダーズ戦だった。奇しくも「一番いい思い出」として残るVリーグ3位決定戦の相手だ。山口はこの試合で今季初めてリベロとしてプレーし、フル出場を果たした。
「周りのチームメイトやスタッフも盛り上げてくれて、自分でも“よかった”と納得できるプレーができました。最後にこんな試合ができて幸せだな、って。その気持ちでいっぱいでした」
近年は日本代表での山本智大や小川智大の活躍で、リベロも脚光を浴びるようになったが、どれだけ拾い続けても得点にならなければ勝利にはつながらず、むしろたった1本のミスで「リベロなのに」という目が向けられる。報われないことも多いポジションではあるが、でもだからこそ、プライドを持ってコートに立ち続け、そのための準備も重ねて来た自負がある。
「周りとコミュニケーションを取るとか、練習前後のストレッチやケア、チーム内のルールやシステムを遂行すること。なかなか目に見えないところだと思うんですけど、僕はそういう面を大事にやってきたし、もしも試合でそういう積み重ねてきたことが形になって、プレーや、自分の姿から何かを感じてもらえていたなら嬉しい。今までやってきた甲斐があったな、と思います」
現役生活にピリオドを打つが、心は離れるわけではない。これからは新たな場所で「また勉強できるのが楽しみ」と笑いながら「東レアローズをもっといい組織にするために、後々はアローズに関わりたい」と目を輝かせる。
「思い通りに行くことばかりではなく、ケガも多かったですけど、バレーボール選手にならなければいろいろな人に出会って、記憶に残れるような人生を送ることはできなかった。頑張ってきてよかったと今は心から思っています」
うまくいくことばかりでなく、うまくいかない時も輝かせてくれたバレーボール選手として過ごした日々は、何物にも代えられない宝物。
胸を張り、笑顔で。これからの人生へと踏み出していく。




